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足守藩・歴代藩主のエピソード

第1代 家定公 (いえさだ)

 北政所・ねねの兄。従三位 中納言。後、二位の法印。
 姫路城2万5千石から足守藩2万5千石に移封。
 妻は杉原家次の娘、おあこ。慶長11年高台寺を建立。
 菩提寺は建仁寺、後、高台寺。


第2代 勝俊公(かつとし)

 家定公の長男。
 若狭小浜城主。六万二千石。従四位下、侍従。
 関ヶ原の陣において伏見城篭城の将となるが、叔母、北政所の
 警護に馳せ参じる。その後、長嘯子と号し、東山霊山の地に幽居。
 歌人として多くの著作あり。妻は森蘭丸の姉。


第3代 利房公(としふさ)

 家定公の長男。二代藩主・勝俊公の弟。従五位下宮内少輔。
 和歌をたしなむ。  墓所は円徳院。正室は織田信包(信長公の弟)の娘であったが、後、離別。
 関ヶ原の陣において西軍として徳川と戦う。関ヶ原の陣の後、浪々の身となるも、後、
 父の遺領・足守を安堵された。


第4代 利當公(としまさ)

 父は利房公。従五位下淡路守。
 槍の名手。利當公は文人の多い足守藩主の中でただお一人、武道を好まれた。
 妻は日出藩祖・木下右京太夫延俊公の三女・お栗様。
 墓所は京都・円徳院。


第5代 利貞公(としさだ)

 父は利當公。母は俊公の三女・お栗。妻は金森出雲守源重頼の娘。
 墓所は京都・円徳院。


第6代 公定公(きんさだ)

 妻は日出藩主木下俊長公の娘・お梅様。学問を好む。赤穂城の請け取りを行い、裏門より
 城内に入る。赤穂城の請け取りの際の資料は文庫にありますので、ご覧になれます。
 ビデオの「忠臣蔵」にも足守藩の赤穂城請け取りの行列が出ています。


第7代 利潔公(としきよ)

 亨保年間に江戸上屋敷類焼。



第8代 利忠公(としただ)

 妻は松浦誠信公の妻。松浦誠信公は鎮信流のお茶道で名高い松浦鎮信公のご子孫。

おみずに建つ「田中九之丞」を称えるほこら

田中九之丞は足守藩を一命に替えて守った忠臣。九之丞を祭るほこらには冬でも花が絶えることが無いという。

第9代 利彪公(としとら)

 父は利忠公。従五位下淡路守。
 学問を好み足守に藩校や民間子弟の教育の場を建てるなど、ご長寿であれば、
 名君として藩の歴史を飾る方になられと思われるが、参勤交代の途上、思いもかけぬ事件に
 巻き込まれ、ご自身も若くしてお亡くなりになっている。

 この事件は寛政11年に発生した。足守藩の一行は参勤交代の途上、東海道、大井川
 において川止めとなり、見付宿に宿泊していた。この時、西国の某大大名が遅れて到着
 したため、小藩の足守藩としては格式上、本陣を引渡し直ちに脇本陣に移るべきところ、
 すでに、ご家中の方々は旅装をとき旅の疲れをとっておられるところで
 あったため、脇本陣へのすみやかな移動もままならずいたところ、宿場役人に道中不行届
 を咎められることとなってしまったのであった。

 このため、道中奉行、田中九之丞はその場において切腹、自ら責をおった。
 道中奉行の切腹により、足守藩はかろうじて存亡の危機から救われることと
 なったが、その後、この事件は足守藩の行く末に大きな黒い陰を落とすこととなった。

 足守近水園には今も忠臣・田中九之丞を称えるほこらが祭られている。

 

第10代 利徽公(としよし)

 麻布広尾の下屋敷に移る。陸奥の国伊達郡、信夫郡に村替え。

 

第11代 利徳公(としのり)

 次女トヨに藤堂和泉の五男を木下利徳として迎える。

 

第12代 利愛公(としちか)

 賀陽郡に再度、村替えとなる。利愛公は第10代利徽公の子。豊臣の血筋
 は利愛公が藩主となることにより目出度く子孫に引き継がれることとなった。

 

第13代 利恭公(としやす)

  最後の殿様。妻は丹羽長秀の子孫に当たる丹羽右京太夫藤原長富公の娘。梨の栽培
 を勧め、領内に4,000本の梨の苗木を植えさせた。この梨は今も大木として残っているという。  (岡山県歴史大辞典)

 

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